深夜2時の独り言。

田舎から出てきた大学生が思っていることを書いています。

「かわいい」という言葉

「かわいい!!」

女子が口にするお世辞ランキング第1位の言葉。

 

 先日、美容室の撮影モデルをさせていただける機会があった。

その日は普段の髪を整えるための美容室ではなく、撮影をするスタジオになっていた。美容室に入るとすでに可愛い子がいて、美容師さんに髪の毛をセットしてもらっていた。その後に違う可愛い子が入ってきて、その子は撮影をしている間、その場にいた全員から盛大な「かわいい」を浴びていた。(誰から見てもまじでかわいかった。)

 

 あまり体験できるようなことではないからと引き受けた自分が嫌になった。その子が撮影を行っている間私はその子の方をちらっと見てみたり、美容師さんやカメラマンさんの話声を聞きながら、もっと自分の顔が可愛ければいいのに、そう何度も思った。

 

 そして、私の撮影の番になった。その子ほどではないが「かわいい」と言ってもらえた。撮影している時は舞い上がって、自己肯定感が爆上がりしていた。

 

 家に着いた頃にその日撮った写真が送られてきた。「あのかわいいはお世辞だったんだろうなあ」と現実にビンタをされて夢から起きた。

 

 

 美容室に限らず、普段の生活の中にも「かわいい」というお世辞が溢れかえっている。

 「かわいいね」というお世辞に対して私はニヤニヤしながら「ありがとう」ということしかできない。未だにどのように返答すればいいのか正解を見つけられていない。「コンタクトの度合ってる?」くらい言えたらいいのだが、残念ながら瞬時にそれが出てくるほどのワードセンスを持ち合わせていない。ド定番中のド定番のお世辞なんだからいい加減、正解を見つけたい。

 

 

 話は変わって、よく人は外見ではなく中身だと言われるけれど、他人の「かわいい」を素直に受け止められないようなひねくれ者の中身を持っていて、外見もよろしくない私に救いはあるのか。ああ、ある気がしない。

 

 可愛い子に嫉妬して、せめて一歩くらいは近づきたいと思って試行錯誤して、鏡を見て現実にビンタをされて現実の厳しさを知る…そんな毎日過ごしている。ここから抜け出すには何十年もかかってしまいそうだ。

 

 そういえば、高校生の時にカウンセラーの方が講義してくれたことがあったが、その時に「鏡を見るときに何割増しかで自分がよく見えるようになっている。」といっていた。(何となく知らない方がよかったような気はするが。)そうすることによって少しでも自分が病んでしまうことを防いでいるらしい。

 こうやって自分に「私は可愛い」と魔法をかけ続けることによって、現実にビンタされた時でも痛みが最小限で済むのかもしれない。今回の美容室の撮影モデルの例だと、「写真写りが悪いだけ、私のポテンシャルは発揮されていない」的な…。

 本能から自己肯定するような機能が備わっているならば、自らさらに自己肯定をしていくのは大切なのかもしれない。

 

今日はもう遅いから寝よう。おやすみなさい。

憧れが日常に変わった瞬間

これから帰るのめんどくさい。

 

ふと授業中に思った。

 

 約20年間生きていて、遊んでいて帰りたくないと思う感情はあったが、学校にいて帰るのめんどくさいと思ったことは初めてだった。学校に登校している最中から「早く帰りたい」を口にしてしまうほどなのに。

 

とはいえ、帰るのにも一苦労だ。電車に揺られて、約1時間。その他歩いている時間などを含めればそれ以上かかる。さらには何時に帰ってもどこかで満員電車か結構混んでいる電車につかまる。

 年に数回のお祭り程度でしか大勢の人を見ることがなかった田舎者の私にとって満員電車は神経がすり減っている気分になって疲れてしまう。

 

 改めて考えてみると、今まで面倒くさいと感じなかった方が奇跡だ。

 

なんて考えながら改札を抜けてホームに向かっていたら着いた瞬間に、「ちょうどいいでしょ僕。」と言わんばかりにドヤ顔の電車が来た。

 だがしかし、そのドヤ顔電車に乗ろうとしている人は沢山いる。次の電車が空いている保障なんてないのに、これは諦めて次の電車にしようかなと考えていた。ふと電車の時刻を知らせる電光掲示板に目を向けると、次の電車の時刻は10分後の時間を表示している。10分待てる心の余裕がなかった私はドヤ顔電車に「もう1両くらい増やせば?」と悪態をつきながら、それに乗り込んだ。

 

 

「慣れ」というものは怖いものだ。

 「電車移動」というものに憧れ、「通学定期」という存在にも憧れていた少女が、今や当たり前に通学定期を使い、当たり前に電車通学をしている。その上、電車で帰るのが「面倒くさい」と言うまでになってしまった。

 もう「日常のモノ」から「憧れていたモノ」に戻ることはない。

 

 

最近の生活の中で電車の割合が多いからか、2回連続で電車の話題になってしまった。

今日はもう遅いから早く寝よう。おやすみなさい。

電車に揺られて

 今年の4月から大学のキャンパスが変わり、元のキャンパスの近くに住んでいた私は去年と比べ物にならないくらい通学時間が増えた。

 毎日1時間近く電車に揺られて、気分は小旅行だ。

 

 そんな中、緊急事態宣言が出た。テレワーク7割実施が目標らしい。

とはいえ、電車の中は混んでいる。むしろほぼ満員電車だ。みんなスーツを着ていて「仕事でした」という雰囲気を醸し出している。

 

 

テレワーク7割はどこにいった?

 

 

 もしかしたら通勤している3割でこれなのかもしれない。もしそうだとしたら、コロナが落ち着いて、テレワークなどが浸透せず元の通勤客数が戻るときが来るのかもしれないと想像したら吐き気がする。

関東の大学に進学するまではそもそも「電車」という存在とは無縁の生活だったし、コロナが流行してから関東に引っ越してきたからコロナ前の通勤時の混み具合なんで知らない。

 

 「テレワーク7割なんていきなり目標が高すぎるんだよ…」などと思いながら情報番組を見ていたら、その番組に出ていたタレントが同じことを発言していた。私は「それな」と言いながら家を出て今日も電車に揺られている。

 子供のころから街並みを見るのが好きで、よく親が運転する車の中から街の風景を見ていた。そのため今でも電車に乗っている時に窓の外をよく見る。いつも通り外を見つめていると、とある大企業のビルが目に入った。当たり前のようにそのビルの窓から明かりが灯っているのが見える。そんな景色を見て「ああ、テレワーク7割とか、緊急事態宣言とか幻だったのかな」と感じてしまう。

 

 

 目線を窓から車内に戻すと、9割の人間がスマホを見て下を向いている。スマホはこんなにも普及しているのか、といつも驚きを隠せない。小学生からおばあちゃんまでほとんどの人がスマホを見ている。私の両親が携帯電話としての機能を全く使わなくて未だにガラケーだから余計驚きが大きいのかもしれない。

 この前母よりも大分年上のおばあちゃんがスマホを使いこなしているのを見て、母が「もうそろそろ携帯を変えたい、もうガラケーがあまり売ってないからスマホかな」と言っていたのを思い出した。次帰省した時に母にスマホの使い方をレクチャーしなければ。(たまに私はスマホしか持っていたことがないのに、ガラケーの使い方も聞かれる。「わからないよ」と言いつつ結局使い方を説明している。)

 

 こんな感じで毎日の通学の様子を書き出していると、ちょうど1年前のまだ電車に慣れていない頃、横浜駅でどの改札を通れば乗りたい電車に乗れるのかわからなくて泣きそうになった自分を思い出し、初々しさを感じた。そんな私も電車に慣れ、最初のころこそ窓から見える都会の景色が新鮮でずっと窓の外を眺めていたが、最近電車の時間はスマホを見ていることがほとんどで、外を眺めることも少なくなてしまった。私も電車の中の9割の人間になってしまったようだ。こうやって私は都会に染まっていくのかもしれない。

 

今日はもう遅いからもう寝よう。おやすみなさい。

1人暮らし

「一人暮らしなの?偉いね!」

 

高校進学とともに一人暮らしを始めた私が今までに何百回と言われてきた言葉。

 ふとした時に何が偉いのか考えることがある。

 

 

大体は一人で家事をこなしていることが偉いと言いたいのだろう。

 だがしかし、私は完璧な人間ではないから、ご飯を作るのが面倒だったらコンビニに買いに行くし、Uber Eatsだって利用する。皿洗いだって後回しにしてしまうし、洗濯だって服が足りなくなるまで回さない。

 こんな私に「家事をしていて偉い」という言葉は少し気が引ける。

 

 そもそも、行きたい高校に行ったら一人暮らしをしなくてはならなくなっただけ。行きたい大学に行ったら一人暮らしをしなくてはならなくなっただけである。

 地元の高校に行って地元で就職すれば一生実家にいることもできた。だからこそ私は「一人暮らし=偉い」という印象に疑問を持ってしまうのかもしれない。

 

 

 

さて、「一人暮らし偉いね」と同じくらい言われる言葉は「一人暮らし羨ましい」だ。

 高校生の時の私は逆に実家暮らしの人が羨ましかった。実家から行きたい高校に通えるという環境、家に親がいるという環境、自分で何から何までしなくてもいいという環境、その全ての環境に対して羨ましかった。

 両者が羨ましがるこの状況は「ないものねだり」だろう。地元を離れて一人暮らしを始めてから人は結局「ないものねだり」なのだと実感することが多くなった。

 

 

 一人暮らしをしてよかったかと考えることがある。答えいつも「よかった」にたどり着く。

とはいえ、1人暮らしを始めた当初はホームシックで泣いてしまうことが多く、地元の高校に行けばよかった、なんで実家からこの高校に通えないんだ、部屋の扉を開けた瞬間に地元だったらいいのに、とか何回も思っていた。

 慣れてきてからは、家族による制限がないので楽と感じるようになっていった。

 一人暮らしは自分が成長するのに手っ取り早い方法だと思っている。一番私が成長したなと思えるところは「1人で何とかする力」だと思う。親がいると親に甘えてしまうが、自分しかいないので何とかしようという思考が働く。

 一人暮らしをしてよかった、と思っていることは他にもあるのだが、一番は先ほど書いた「成長できる」ことだと思う。

 

 

 気づけば、高校進学と共に始めた一人暮らしも4年がたち、5年目になった。そんな私でもふいに「なんで一人暮らししなきゃいけないんだろう」と思うことがたまにある。でもそんなときは、「いつかは親元を離れて生活しなければならないときがある。それを始める時期が高校生だっただけ。」最近私はこう考えるようにしている。

 

 

今日はもう遅いから寝よう。おやすみなさい。

私には文才がない。

「初めての記事なのにこんなタイトルでいいのか。」

「いや文才がないんだったらブログ書くの向いてないよ。」

 

と思った方は必ずいるだろう。前者の意見は私の心の中だったりもする。

 

 

 

 私は何かを始めるとき、というよりも何かを書こうと思った時、このブログがその典型的な例なのだが、何かの文章に影響をされて書き始めることが多い。その時に読んだ文章の繊細さ、綺麗さに憧れてPCに向かう。だがしかし、書き始めるたびに自分の「文才」の無さを痛感し、あなたは凡人ですよと言われている気がして落ち込んでしまう。

 別に凡人でもいいのかもしれない。凡人がいるからこそ文才のある人は輝くことができる。でもそれは「あなたは物語のモブAだから主人公にはなれない。」と言われているように感じる。物語の主人公でありたいと願う承認欲求が強い私にとっては酷な話である。

 

 そもそも私の場合は「文才」以前の「文章力」の問題ではないかと思っている。

 

 私の中で「文才」は生まれ持っているもの。「文章力」は自分で身に着けていくもの。と認識している。

 

 

「文章力は自分で身に着けていくものなのだからせめて文章力くらいは身に着けることができるでしょ。」

 

 

そう口にすることは簡単なのだ。


 ある程度読みやすい文章を書ける程度まで文章力を高めるとすると、その分文章を沢山読む必要があると私は考えている。

ここで私の中でもう1つ問題が生まれる。

 

 

私は本を読むことが苦手だ。

 

 

ただでさえ最初からブログの適性度が低そうな発言をしているのに、この発言でさらに適性度を下げてしまった。

 

 

私は凡人だから0から1を作り出すことはできない。

でも、世の中にある可能性を拾い集めて10を11くらいにすることは可能なのかもしれない。

 

私はこれから文章を10から11にするだけの努力はしようと思った。物語の中でモブAの役をもらった凡人は少しでもいい役をもらえるように頑張るしかない。

そのために苦手な文章を読むという宿題ができてしまったが。

 

今日はもう遅いから早く寝よう。おやすみなさい。